うみのこ通信

日々の断片

風化、表明

社会人になってから、3.11のことを忘れてしまうようになった。地震が来たあの時間は、仕事をしているうちに過ぎて、15分後に「あ、」と思うことが多い。

あの日はまだ中学生だった。学年末テストが近くて、学校に残っていたら地震が来た。私は教室にいた。

友達と「怖いね」と言い合っていたら、近くにいた英語のネイティブの先生が「早く教室から出なさい」と言って、校舎の外へ避難した。プールに溜まった水が、地震の揺れで場外に大きくはみ出して、地面にびしゃびしゃになった。同じ学年の、知らない女の子が泣いた。同じクラスで私をいじめていた男子生徒は笑っていた。彼はもうすぐ退学することが決まっていたので、かなりどうでもよかった。

大きな教室に生徒が集められた。普段は携帯を校舎で使ってはダメだけど、特別に許可が出て親に電話する。繋がらなかった。

車を出せる別の生徒の親が、私の家の近くまで送ってくれることになった。普段はガラガラの道が、すごく混んでいた。夜が迫る暗闇の中、どうしたらいいかわからない車のライトが煌々と光っていた。

家に帰ると、やっぱり誰も帰っていなかった。リビングは、食器棚が開いていて、グラスがいくつか床に落ちて割れていた。中も、ぐちゃぐちゃになっていた。

テレビをつけると、津波の映像とともに黄色や赤に染まった日本列島が右に小さく写っていた。ニュースキャスターは同じことを何度も叫んでいる。ACジャパンのCMが度々入り、「こんにちは」「ありがとう」を横目に見ながら、私はテスト勉強で漢字ドリルをやった。何かに集中していないと、気がおかしくなりそうだった。

固定電話から親の携帯電話にかけると、繋がった。母親は今日中に帰ってこられず、父は帰ってくるかもしれないとのことだった。

 

自分の部屋では寝られず、リビングで毛布にくるまっていると、夜中の1時に父が帰ってきた。安心して、寝た。その次の日に生理が来た。母が帰ってきた。

 

あの日から13年。私は両親に家を出ると言った。泣きながら、いつも大事なことを言おうとすると邪魔するように出てくる涙を堪えられるはずもなく、伝えたのだった。